ルネサンス末期のイタリアの自然学者,天文学者。近代の数量的な自然観の樹立のために多大の貢献を行い,しばしば〈近代科学の父〉と呼ばれる。ピサで生まれた。父親ビンチェンツィオVincenzio Galilei(1520ころ-91)は微禄したフィレンツェの貴族出身で,織物商を生業としたが,音楽に造詣が深く,かなり名の知られた人物であった。ガリレイは初め医者を志して,1581年にピサ大学に入ったがスコラ的な講義に幻滅を味わい,中途で退学した。その後フィレンツェでリッチOstilio Ricci(1540-1603)から個人的にユークリッド(エウクレイデス)やアルキメデスを学んだ彼は,科学における数学の重要性を認識し,その研究に打ちこんだ。そして89年にピサ大学の数学教授となり,次いで92年にはパドバ大学に移り,そこに1610年まで在職した。20年以上にわたる両大学の数学教授時代に彼が学生に教えたのは,ユークリッド幾何学やプトレマイオスの天動説的な天文学を初めとする伝統的な諸学科であったが,自分の研究対象としたのは主として場所運動論であった。彼は早くも90年ころその最初の考察を《運動について》と題する論稿としてまとめあげた。この中で彼は,あらゆる物体が同一種類の物質から成ることを前提にしたうえで,アルキメデスの静力学的な浮力の原理を拡大することによって,落体の速度が落体の比重から媒質の比重を差し引いたものに比例すると論じている。だが,その後まもなく彼は,斜面や振子の研究を深めることによって,《運動について》では副次的役割しか与えられなかった加速度こそが,落体の運動の本質的要因であることを見抜き,ついには真空中での落下距離が落下時間の2乗に比例し,しかもそのためには落下速度が落下時間に比例しなければならないという落体の基本法則を発見した。さらにこの研究の過程で運動の合成の法則と慣性の法則を導き出し,投射体の経路がパラボラ曲線になることを証明することができた。だが彼の慣性の法則はあくまで地球の中心から同一距離だけ離れた水平面上での等速運動の継続を主張する〈円運動の慣性〉の法則にすぎず,直線運動の慣性の法則ではなかったことを忘れてはならない(この点で彼は円の完全性という古代・中世の観念からまだ脱却してはいなかったのである)。ほかにも彼は幾多の成果を得たが,なかでも特筆すべきは,振子の等時性とその周期の2乗がひもの長さに比例するという成果である。
以上の研究が大きな前進を遂げている間に,彼の生涯における大きな転機が1610年に訪れる。この前年,彼はオランダで望遠鏡が発明されたといううわさを伝え聞いて,早速みずからその製作に着手した。そして倍率30倍の望遠鏡を用いて初めて天体観測を行い,月面の凹凸,木星の4個の衛星,太陽の黒点,金星の満ち欠け等の一連の驚嘆すべき新現象を発見した。これらの現象はいずれも,地上界は不完全で可滅的であるのに対し,天上界は完全で不滅であり,しかもすべての天体は地球を中心としてそのまわりを回転するというアリストテレスの宇宙論の根幹をゆさぶるものであった。かなり早い時期からコペルニクスの地動説に賛同していた彼は,決定的にその信念を強めるとともに,これらの画期的な発見を《星界の報告》(1610)等に次々と発表した。これまでさほど有名でもない一介の学者にすぎなかった彼は一躍ヨーロッパ全体から大きな脚光を浴びただけではなく,トスカナ大公コシモ2世から宮廷お抱えの哲学者兼首席数学者としてフィレンツェに招かれた。
こうして,必ずしもみずからの意志に添うものでなかった大学での講義の義務から解放され,研究と著作に専念しうるようになった彼は,断続的に起こる病気に悩まされながらも,長年にわたって蓄積してきた研究をまとめあげる仕事に取り組み,まず23年には科学方法論に関する論争の書《黄金計量者》を出版し,自然という書物が数学の文字で書かれていることを力強く主張した。さらに32年には地動説的な宇宙論を全面的に展開した《天文対話》を発表した。しかし《天文対話》は時の教皇ウルバヌス8世の忌諱(きい)に触れ,翌年彼は異端審問所から断罪され,地動説を誓絶させられた。この結果彼はフィレンツェ郊外のアルチェトリに蟄居(ちつきよ)させられたが,その旺盛な研究への情熱はほとんど衰えを見せず,38年には静力学と動力学の成果について体系的に論じた《新科学講話》を教皇庁の権力の及ばない新教国オランダから出版した。この著作は,その後ニュートンの《プリンキピア》(1687)が現れるまで,近代的な力学研究に関する最も重要な著作としてたえず参照されることになった。晩年彼は,両眼失明という不幸に襲われながらも,若い弟子トリチェリやV.ビビアーニとの科学の諸問題をめぐる対話に大きな楽しみを見いだしながら,天寿を全うした。
執筆者:横山 雅彦
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近代科学の創始者の一人。自ら作成した望遠鏡での天体観測によって地動説を唱道。それをめぐる宗教裁判は,近代の科学と宗教の対立の先駆的事例となった。ピサ大学(イタリア)で自由学芸を学んでいたときに,司教座聖堂のランプが揺れるのを見て振り子の等時性に気づいたとされる。その後,フィレンツェの科学アカデミーの一種アカデミア・デル・ディゼーニョの数学教授であったオスティリオ・リッチから数学を学んだ。そのためガリレオ・ガリレイの数学的素養は大学の伝統とは異質の性格を持ったが,1589年にピサ大学の数学教授への就任に成功。ピサ時代に斜塔からの実験で自然落下法則を発見したとされるが,実験をした確証はない。1592年にパドヴァ大学に移り,望遠鏡による天体観測を始め,地動説の確信を得た。1610年トスカナ大公コジモ2世によって大公付き首席数学者・哲学者に任命。ローマのアカデミア・デイ・リンチェイ会員。『天文対話』(1632年)によって地動説を公表し,異端審問にかけられた。
著者: 児玉善仁
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1564~1642
イタリアの科学者。1609年みずから発明した望遠鏡(倍率30)で天体を観測して,地動説に有利な事実を多数発見したが,15年,ローマ教会は地動説を禁止した。彼はその後も観測を続け,32年『天文対話』を刊行したが,地動説を擁護したかどで宗教裁判にかけられ,地動説の放棄を誓約させられ,配所で死んだ。
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…(1)木星の第I衛星。1610年,G.ガリレイによって発見され,ギリシア神話の女神官イオにちなんで名付けられた。木星中心より42万1800km(木星半径の5.91倍)のところをほぼ円軌道を描いて,1.769138日で公転している。…
…多くの聖人を列聖して聖別法を制定,聖マリア訪問童貞会やバンサン・ド・ポールのラザリスト会などの新修道会の認可,伝道のためのウルバノ大学の設立,聖務日課書の改訂,ヤンセンの著書《アウグスティヌス》の発禁など,教会改革には熱心であった。ガリレイに対しては好意を持っていたが,33年の第2回目の裁判で彼の地動説を撤回させた。三十年戦争時代の複雑な政局のなかで中立政策をとろうとして,かえってフランスの枢機卿宰相リシュリューの反ハプスブルク政策を後援する結果となった。…
…例えば,S.ステフィンはこれを自明のこととして用いて,力の合成の平行四辺形則を証明している。 しかし,エネルギーの概念の萌芽となった運動エネルギーに関する考察を初めて試みたのは,やはりG.ガリレイであった。彼は1600年ごろ,木材の上に立てた釘の頭に金づちの頭よりずっと重い物を載せても釘は木の中に入らないが,金づちを振り上げて打つだけでなぜ釘は楽に木材に打ち込まれるのかを問題にし,運動する物体には何か固有の“ちから”があると考えた。…
…考案されてから3世紀ほどを経過したにすぎないが,逐次に多様化され,学術,産業その他の諸分野にわたりさまざまな形で活用されている。
[歴史]
熱膨張を利用した古代の魔術まがいのしかけを別とすれば,温度の変化を示す装置を最初に考案したのはG.ガリレイといわれる。彼は,今日いう気体温度計に近いものを17世紀初期に作ったが,大気圧の変動の影響を受けるものであったから,真の温度計とはみなされず,サーモスコープthermoscope(温度見の意)と呼ばれた。…
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[学会の成立]
学会の起源をどこに求めるかについては,歴史家の間でさまざまの議論があるが,1603年,チェシFederico Cesi(1585‐1630)をパトロンとしてローマに誕生したアカデミア・デイ・リンチェイAccademia dei Linceiを近代的な学会の先駆とみるのが普通である。このアカデミーにはガリレイも会員として名を連ねていたが,パトロンの死去にともなって30年ころ活動が途絶えてしまった。一方,フランスには,M.メルセンヌを中心としたメルセンヌ・アカデミーがあった。…
…今から2000年ほど昔には夏至点がここにあった。この星座の中央にあるプレセペ星団は,1609年G.ガリレイが自作の望遠鏡で微光星の集りであることを発見したので有名である。α星は4.3等,β星も3.8等と全体に暗い。…
…これはギリシア語で容器,椀,椀状にくぼんだところなどを意味するkraterに由来する。惑星の地形をあらわす言葉としてこれを使った最初の人はG.ガリレイで,月の表面にみられる多くの丸いくぼみにこの言葉をあてた。 ガリレイ以後,月の表面に大小さまざまのクレーターがあることが明らかになったが,この成因については〈隕石孔〉とする説と〈火山爆発〉とする説の2説の間に長い論争が1960年代の初めまで続いた。…
…日本での最古の観測は《文徳実録》巻三に〈仁寿元年十一月甲戌(851年12月2日),日無精光,中有黒点,大如李子〉と記されている。
[望遠鏡による近代観測]
望遠鏡による観測は1611年J.ファブリチウス,G.ガリレイ,C.シャイナー,ハリオットT.Harriot(1560‐1621)の4人によって幕あけした。その成果はG.ガリレイの《太陽黒点についての手紙》(1613)およびC.シャイナーの《Rosa ursina sive sol》(1626‐30)に著されている。…
…《天文対話》とならぶG.ガリレイの主著。1638年に出版された。…
…天文学が古くから高い段階の学問として成長したのは,それが民衆の生活に必要な知識を提供したばかりでなく,天体の運動にみられる整然さの中に人々が法則性をつかみとることができたからである。 近世における天文学はコペルニクスの地動説に始まり,ケプラー,ガリレイを経てニュートンに至って大きく進歩した。彼が発見した一般の力学法則および万有引力則に基づいて,18世紀には天体力学が著しく発達した。…
…《新科学講話》とならぶG.ガリレイの主著で,1632年に出版された。正確な表題は《プトレマイオスとコペルニクスの二大世界体系についての対話Dialogo sopra i due massime sistemi del mondo,Tolemaico e Copernicano》であるが,日本では一般に《天文対話》と呼ぶのが慣例となっている。…
…したがって木星のような強力な磁気圏は存在していない。 環の存在に初めて気がついたのはG.ガリレイである。望遠鏡の分解能がたりなかったため,耳のある惑星と記した。…
…様式の混在は柔らかい色調のカラーラ大理石で統一され,洗礼堂,鐘楼にも共通する壁アーチ(初層)と列柱帯(上層)による装飾構成はピサ様式として近隣のルッカ,ピストイア,またリグリア海を越えたサルデーニャ,コルシカ両島に伝播した。ピサ生れのガリレイは同大聖堂内の揺れるランプを見て振子の等時性を直観したと伝えられる。 鐘楼(1173~14世紀後半)は地盤の不同沈下で建設中に傾き,そのまま完成された。…
…イタリアの物理学者,数学者。フィレンツェに生まれ,1639年ガリレイの弟子となった。ガリレイの死後もトスカナ大公フェルディナンド2世の庇護(ひご)を受け,実験科学者の学会であるアカデミア・デル・チメントを主宰した。…
※「ガリレイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
マイナンバーカードを健康保険証として利用できるようにしたもの。マイナポータルなどで利用登録が必要。令和3年(2021)10月から本格運用開始。マイナンバー保険証。マイナンバーカード健康保険証。...